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2025.10.23

自分軸と他人軸

わたしは3、4歳あたりから、18歳ごろまでチェロを習っていました。やめて10年は経過していましたが、どうしてももう一度弾きたくて、それからずっと習っていた先生に習いたくて、再開した、チェロです。3、4歳から18歳頃までやっていたのですが、「プロにならないのに、続けていても意味がない」と好きだったのにバッサリとやめました。人生で初めての挫折というか、諦めというか、そういう感情を味わったチェロです。そのチェロを、2022年の6月から再開しました。そして、なんと1年後の6月に、発表会に参加しました。うん10年ぶりです。

発表会には、それこそチェロを始めてからずっと出てきていたわけですが、当時発表会に出るのはわたしの中では一種の「闘い」であり、自分のレベルを見せつける場、大人たちに「上手だね」と褒めてもらう場でもありました。ですので、社会人とか、言ったら『大人』が、自分より下手な演奏なのに出演していることの理解が全くできなかったんですね。こうやって書くと、何と尊大な高慢ちきな考えでしょうか。だのに、時は過ぎ、今のわたしと言えば、発表会では最年長。腕も大学生たちに敵わない。そういう存在で発表会に参加しているのです!あの時のわたしが見たら「や、やめて!そんな恥を晒すようなことしないでよ!」とでも言ってきそうな状況です。

 

しかし、今回の出演に関して、わたしは自分でもびっくりするくらい「なんの恥の感覚もない」状態でした。それはなぜか。チェロは、誰のためでもなく、自分のために弾いているからです。弦が震えるのを楽しみ、音が響くのを楽しんでいる。全部自分のためでした。

 

そうすると、この一瞬のために、美しい音をどうやって出そうかと、自分の満足する音をどうやって奏でようかと、意識はそういうことに向いてゆきます。もちろん、観客の人たちがどういうふうに聴いているのかは気になりますが、それよりも大切なことがあるという一本何か筋がある。そういう感覚でした。終わった後は、緊張が解けてぐったり、グリコーゲン全消費という感じでしたが、それがまた心地よい疲労でした。
人の評価を生きると、スピード感のある快感を得やすいという反面、「恥」の気持ちも強くなりやすい。自分の価値が相手によって決まるので、相手の反応に一喜一憂しやすくなるのです。

ああ、若かりしのわたしは、その評価をとても大事にして生きていたのですね。それはそれで、甘酸っぱい良い思い出です。けれども、その域から脱して、今は自分で自分の価値を創り上げているのだとしたら、それは何と嬉しいことなのだろうと思います。

 

 

若かりし頃のわたしへ言ってやりたいですね。
あなたはいずれ、あなたが『ふーん』と見ている大人たちを尊敬するようになりますよ」と。
あの時、わたしが尊大な態度で見ていたあの社会人の大人の方々は、自分の基準で、自分の価値を生きている、なんて素敵な人だったんだろうと、しみじみ思った発表会でした。