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2026.04.30

2023年最後の小話

※2023年12月のニュースレターのものを掲載しています。

ついに2023年が終わります。今年もたくさん新しいことに挑戦しました。

石垣島にパーマカルチャー講座を受けに行き、妹とインドに行き、月に一回岐阜の民藝教室に参加し、九州、名古屋、大阪、上高地、北海道…と多くの場所に訪れました。

民藝教室は、今の日常を立ち止まって、自分の感覚や、「考えること」について深く見つめていける時間になりました。美しいと言うことを、ひたすら言語化した柳宗悦に触れ、美しさとはなんだ、と言うことを考えさせられました。実は自分は最近、考えるばかりで現実世界の自分を動かすこと、動くことをサボっていたな〜、なんて思いました。おかげで今は現実世界を生きるようになっています。

皆さんはどうですか?現実世界を豊かにしていますか?感覚や感情を使って、周囲の空気や植物や人間や芸術などと関わっていますか?

2023年は、それを取り戻すための1年だったようにも思います。気づかせてもらいありがたい限りです。

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2026.04.27

ぱさぱさの心に個性は生まれない

個性ってなんですか?

「私個性がないのです」と相談されることがあります。
個性ってなんですか?

 

髪が綺麗なこと?kawaiiこと?早く走れること?楽器が上手に演奏できること?お金を稼ぐのが上手なこと?オシャレなこと?人から注目されているということ?人より何かが優れているってこ
と?

これらは全て“表出”されていて、そして「人からの評価を受けるに値するもの」、という位置付けになっています。

 

個性を”表出”された特徴でのみとらえる人が多いけど、表出されたものがすべてではありませんよ。むしろ表出されているものは、二次的なものです。表出を導くその人の根源的な感覚や感情が存在し、それこそが本当の「個性」と呼ぶべきものです。

それは外から内に向かう引力であり、内から湧き出る活力です。わかりやすく言うと、感じたこと、思ったこと、考えたこと、です。私たちの内なる感覚が外界からの刺激を味わいつくした後に、自然と湧き上がる感情や思考です。

外に表出する矢印だけで個性を捉えている人が多過ぎる。個性は外から内の矢印が最初です。その後内から外。「外」だけつけても、中身が空っぽです。よく分からないプライドばかりが高くなる。その個性は比較を発生させるものだから、緊張状態におかれます。疲れる、攻撃的になる、落ち込む…等々。外だけ取り繕って、ぱさぱさに乾いてゆく心。

 

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難かしくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮しのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

 

「自分の感受性くらい」/茨木のり子

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2026.03.31

自立には良質な依存が必要

まずはどっぷりと包み込む

自立と依存はセット

自立させようと、異様に「自立」にこだわる親がたくさんおります。親の役割と、第三者の大人の役割は異なります。自立にこだわるあまりに、まるで第三者のような大人の立ち位置で子どもと向き合っていると、子どもは安心という土台がないまま、社会に出なければいけない感覚になります。それはどんなに不安なことでしょう。

 

子どもが選べるようにしてあげることは大切ですが、選ぶことを強要してはいけません。選ぶ際に必要な知識や技術は第三者の大人が行えます。「あなたが選んだことを、否定も肯定もせず包み込みますよ」は親の役目です。「わからない」というならば、「わからないのかあ」とその気持ちを深いところまで共感することがまず第一です。

子どもが何かをやり切ることは大切ですが、それを自分でできるように約束を取り決め、システム化して、自分で実行させることを強要してはいけません。約束を守ることは大切ですが、守らないという気持ちを理解しようとすることも大事です。なぜ守れないか?のシステムの問題ではなく、守らない気持ちはなんなんだろう、の理解を深いところまでしていくことが必要です。「約束を守る」ことが大人ないし自立への第一歩だとして、そのシステムだけに注目するならば、子どもは自分の価値を感じない経験をすることになります。

「あなたはあなたのままでいい」という言葉が多くの場所で言われていますが、果たして、「あなたのままでいい」ということが、言葉だけではないことで伝わっているのでしょうか。

 

未来が心配になりすぎて、「こういうスキルを身につけさせてあげなきゃ」という気持ちばかりが先行します。しかし、まず一番最初に子どもに本当に必要なのはスキルではなく、「どんな状態、どんな自分でもいいから包み込まれている」という感覚です。

 

「受け止めてもらう」はよく言われますが、それはどこかで表面的であります。「そうなんだね」「そう思ったんだね」などの表面的な言葉が目立ちます。

 

表面的な言葉で受け止めてもらった子どもは、人の言葉は表面的なのだということを学び、「どうせ人というのはみんな本心は違うんだ」ということを学びます。信じ切るということがなされず、諦めてどこか冷たさを持っている場合もあれば、その悲しさややるせなさを怒りに変えて爆発させて反抗している子どももおります。

親と第三者の大人の役割は異なります。自分達はものすごく理解者のようにしているけれど、子ども側から見れば、親戚の大人くらいの距離感で、それはそれはもどかしい距離なのです。ですから、「もっと近づいてくれよ」と親から見たらとても嫌な行動でやってくることもある。

 

それは子どもの自己中心的な行動ではなく、「人間には包み込みというものが必要なのだよ。あなたも、わたしも」というメッセージなのだと思います。

 

足場がしっかりとあるからこそ、思い切り走れるでしょう。ジャンプできるでしょう。

自立と独りが一緒にならぬよう、私たち大人は(子どもがいようがいまいが)知る必要があります。包み込まれているという感覚を知る必要があるのです。

 

それが、自立した人たちで形成されている社会を、繋がりが存在したあたたかなものにします。

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2025.11.12

やわい屋の民藝教室

やわい屋の民藝教室

以前、岐阜の飛騨高山に月に一回、民藝について学びに行っていたことがありました。
民藝運動は、柳宗悦(むねよし・そうえつ)が主唱者の、手仕事によって生み出される生活の中(日常の中)の器などに美を見出す運動です。民藝は柳が創り出した造語で、『民衆的工藝』の略です。

 

25歳くらいの時から、「民藝」という言葉を時々耳にすることがあったのですが、概要を聞いてもいまいちピンとしておらず、「う〜ん、まだ学ぶ機会じゃないのかな?」と当時は脳内のどっかに格納していました。それが、ここ2、3年の中でよく聞くようになってきました。通っていたとある講座の内容に入っていたり、民藝に関わる人とお会いしたり、民藝館に行くことになったり。それで、頭の中に((民藝について知りたいなあ))をいう思いが生まれていました。そんな思いが強くなってきた時に、民藝の器屋さんをされている、いや、民藝運動を生業としていると言っても過言ではない友人が『民藝の講座をやるよ〜』とFacebookに投稿。実はその友人こそが、25歳くらいのわたしに、民藝という言葉を教えてくれた当人でした。「これはいくっきゃない」と申し込み、6月から民藝についての学びを開始した運びになります。

いつも思うのですが、自分にとって必要な学びというのは、タイミングが必ず訪れてくれます。それは、私がわたしに設定しているからです。自分に必要なことは、必ずそのタイミングが訪れる、と。大事なのは、その来たるタイミングに乗れるかどうかです。(インド旅行の時にも同じ話をしましたね(笑))多分、25歳の私には民藝にはまだ至っていなかったんですよね。それで、今の私に来たんでしょう。人生のタイミングって、面白い。偶然って大好きよ。偶然といえば、「人生は必然でできている」なんて言葉がありますけど、皆さんはどう思いますか?

 

わたしはね、偶然の方が面白くないか?という派です。偶然の方がお得感ない?なんか面白くない?自分と、現象が、なんか知らないけど、マッチしたんだって、最高に面白いですよね。

 

私は楽しいことと、面白いことが人生には必須だと思っているのと、偶然の方が面白いと思っている勢なので、「偶然派」です。

 

どちらでもいいんですよ。自分の解釈の好きな方で、生きましょう……と、民藝の話から、偶然の話と、とりとめないお話でした。(笑)

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2025.10.31

食事への恐怖

食事が身体の敵になっていませんか?

食事ついてあまりにも何も無頓着で、好きなように食べているのは、この時代では御法度のように思いますが、気にしすぎて「食べるものがない」と絶望するのも、困ったものですよね。(困った人たち、ということではなくて、その感覚を持っていると、困りますよね、という意味です)
栄養療法や自然療法みたいなことで、どこかで大事になるのは食事『制限』からの解放です。

一定の食事基準で過ごすために、脳はストレス度を減らすために好きでもないものを好きと思ったり、舌やからだが喜ぶものを「別に好きじゃないし」と思うようになることが多々あります。

 

どこかで存在する『好きに食べるを恐怖』がついて回って、体調不良の人たちに限っては「これを食べるとまた悪くなるんじゃないか」が付き纏ってきやすい。

 

食事に対する恐怖は、見えない課題への恐怖が投影されていることももちろんあるのですが、シンプルにただただ、また体調不良になることへの恐怖としても存在します。

体調の改善は、食事制限から始まり、食事『制限』という意識の解放が肝になってきます。(スタートとゴールが同じだったりする)

 

も一つ言うと、いつまでも自分が「体調の悪い存在」であり続けないために、どこかでこの思考を変える必要が大いにあるのです。

 

今回は一つ、じゃあどうするといいかと言うアドバイスを。それは、驚くような美味しい、ちょっと高級で美しいお店のイタリアンやフレンチを食べに行くと良いですよ。小麦も乳製品もふんだに使っている、美味しい西洋の食文化の集結を食べるとよいです。

そしてその美味しさを存分に味わって「この美味しさを感じるためにわたしのからだは在るんだ」と感動をからだに叩き込んでください。

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2025.10.23

自分軸と他人軸

わたしは3、4歳あたりから、18歳ごろまでチェロを習っていました。やめて10年は経過していましたが、どうしてももう一度弾きたくて、それからずっと習っていた先生に習いたくて、再開した、チェロです。3、4歳から18歳頃までやっていたのですが、「プロにならないのに、続けていても意味がない」と好きだったのにバッサリとやめました。人生で初めての挫折というか、諦めというか、そういう感情を味わったチェロです。そのチェロを、2022年の6月から再開しました。そして、なんと1年後の6月に、発表会に参加しました。うん10年ぶりです。

発表会には、それこそチェロを始めてからずっと出てきていたわけですが、当時発表会に出るのはわたしの中では一種の「闘い」であり、自分のレベルを見せつける場、大人たちに「上手だね」と褒めてもらう場でもありました。ですので、社会人とか、言ったら『大人』が、自分より下手な演奏なのに出演していることの理解が全くできなかったんですね。こうやって書くと、何と尊大な高慢ちきな考えでしょうか。だのに、時は過ぎ、今のわたしと言えば、発表会では最年長。腕も大学生たちに敵わない。そういう存在で発表会に参加しているのです!あの時のわたしが見たら「や、やめて!そんな恥を晒すようなことしないでよ!」とでも言ってきそうな状況です。

 

しかし、今回の出演に関して、わたしは自分でもびっくりするくらい「なんの恥の感覚もない」状態でした。それはなぜか。チェロは、誰のためでもなく、自分のために弾いているからです。弦が震えるのを楽しみ、音が響くのを楽しんでいる。全部自分のためでした。

 

そうすると、この一瞬のために、美しい音をどうやって出そうかと、自分の満足する音をどうやって奏でようかと、意識はそういうことに向いてゆきます。もちろん、観客の人たちがどういうふうに聴いているのかは気になりますが、それよりも大切なことがあるという一本何か筋がある。そういう感覚でした。終わった後は、緊張が解けてぐったり、グリコーゲン全消費という感じでしたが、それがまた心地よい疲労でした。
人の評価を生きると、スピード感のある快感を得やすいという反面、「恥」の気持ちも強くなりやすい。自分の価値が相手によって決まるので、相手の反応に一喜一憂しやすくなるのです。

ああ、若かりしのわたしは、その評価をとても大事にして生きていたのですね。それはそれで、甘酸っぱい良い思い出です。けれども、その域から脱して、今は自分で自分の価値を創り上げているのだとしたら、それは何と嬉しいことなのだろうと思います。

 

 

若かりし頃のわたしへ言ってやりたいですね。
あなたはいずれ、あなたが『ふーん』と見ている大人たちを尊敬するようになりますよ」と。
あの時、わたしが尊大な態度で見ていたあの社会人の大人の方々は、自分の基準で、自分の価値を生きている、なんて素敵な人だったんだろうと、しみじみ思った発表会でした。

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2025.07.30

悪口と影

自分の影の投影

悪口をどう捉えるか

永らく付き合っていたような人と、もっと深く付き合うようになった時に、その人が、人やモノゴトに対して否定をたくさんしているので、「あら、この方(以下Aさん)不満をたくさん抱えている方なのだ」と自分がいかに表面だけしか知らなかったかを感じました。
それで、コンコンとAさんの話を聞いていると、やれあの人はああだとか、あのことが私にこう影響したとか、堰を切ったように話しておられました。私は友人にも家族にもカウンセリングは基本的に行いませんが、Aさんはどうもカウンセリング的なことを望んでいるようだったので、途中から、カウンセリングするかと許可をとって、そういう私で聞いておりました。

以前のブログで、『愚痴とユーモア』の話をしましたが、愚痴と悪口は何が違うのかと言いますと、愚痴は「私はあの時ほんと辛くてさ」など、自分主体で、自分の気持ちに焦点が当たっているもので、悪口は「あの人って〇〇で〜なのよ」と、その矛先は他人に対して向いており、否定や攻撃性が伴っていることが多いのが特徴かと考えております。とまあ、Aさんの場合は、どちらかと言うと悪口でした。

 

私たちには、自分の中のコンプレックスだったり、抑圧しているものだったりが存在するのですが、それを『』なんて言い方をします。そしてその影は、他の人に投影されることがとても多い。ですので、悪口の場合、「あの人のこういうとこが嫌い」「こういうところが馬鹿だと思う」なんて言っておられる内容が、自分の影を話していることが多い。
愚痴は一つ『明日へのユーモアへ』なんて話をいたしましたが、では悪口はどう考えていくかと言いますと、「自分はどんな影を持っているか」ということを知っていくことにするのです。そして「そういう影をもった自分がどのように生きなければならないか」ということを探究していくのです。

良いとか悪いとかではなく、自分を知っていくことに使ってゆく。自分のあたま(思考)はこう捉えているけれど、こころはこう感じているのだと、そういう風に捉えていく。あたまとこころはバラバラになればなるほど、不調に繋がっていきます。からだは疲れ、精神的にもバランスがとりにくくなっていくのです。ですので、あたまとこころはチグハグになりすぎないようにするのが大事だと考えます。

 

生きる上で大事なのは、たくさんの資格や技術や高い地位を持っていることでもなく、自分を知っていることかと思います。人と関わることで、自分を知っていくのですね。AIにはできないことですね。ふふふ。

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2025.07.21

本当に子どもは困っているのか。 困っているのは大人だけなのか。

凸凹の発達と「障害」という言葉

仲の良い多動性衝動性の強いADHD(栄養不足からではない)の人がレシチンを飲んでみたら、時の流れが変わったそうです。
今までは「見る・思いつく・行動」が全て同時だったのが「見る→考える→体を動かす→対象に対して働きかけている自分を感じる」とコマ送りになり彼曰く『遅すぎて気が狂いそうだっった』とのこと。

時間の感覚は人によって異なる面白さをリアルに教えてもらい大いに笑いました。

 

「ずっと動いてるよね」「忙しない」と周りに言われる彼は『俺にとってはこの速さの時間軸が心地よい。端から見ると、忙しなかったり落ち着きがないように見えるかもしれないけど、俺にとっては一番心地いい』とよく言っています。

 

多動でもADHDと言われても、その通り。でも困ったことはほとんどない
ただ、周りの人間がちょっと大変かなとは思うけどね
俺は別に困ってない
周りが困ってる』と笑っている。

 

彼は自己肯定感がエベレスト並み。何があっても大丈夫みたいで、いっそ清々しい。

 

わたしはこれでね、衝動性や多動性に対して「レシチンが良いですよ」ということが言いたいのでは全く無くて、その人が感じる心地よい感覚を、こちらがちゃんと理解する必要があるなと改めて思ったのです。

 

時に、何かのアプローチがその人の心地よさや独自の感覚を奪うことにもなる。栄養療法の、とても大事な視点です。少しからだの代謝回路が変わっているから、その人の個性がでていることもたくさんある。世にいう、芸術家とか、革命家とか、そんな人たちに基準になるように栄養をいれてしまうと、本来の能力が消えてしまうことも、ある。

 

大事なのは、人への観察する眼と、理解する眼。

子どもは困ってるのか?
大人が、ただ困っているだけなのか?

 

よくあるんですね。
子どもは自分を生きているのに、
ラベルつけられちゃうこと。

 

大人が社会や他者と比べて、困っているだけなのです。それって。

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2025.06.30

夢と運と健康

夢を一つかなえた話

2023年の3月の最終週から、4月の最初までの9日間、インドに行きました。
ことの発端は、妹とRRRという映画を観まして、それで盛り上がって「ねえ、インド行こうよ!」と6割本気4割無理だろうなという思いで私が言ったところしばらくした後、出発の日程の1週間前に急遽行けることが決定。ダッシュでビザを取り、出発!

私は長年インドに行きたいと思っていました。インドの、タージマハルに。それで、行くことができて、本当に嬉しかった。涙が流れた感動は「美しさ」と「夢を叶えることができた」という多重層でした。どちらかの配分が多いのではなく、どちらもが重なり合った感動でした。

 

夢が叶うというのは、運ではないですね。今回のインドに行けたのは、私が比較的にどこの場所でも業務可能な仕事をしていて(現にこの原稿もインドの地から書いている)、先月からせっせとタンパク質不足を解消して体調が万全になっていて、お金もまあインドに行く分は工面できて、丁度3月末はスケジュールを空けておいたので行けた。運は「妹が行こうと言ってくれた」ですね。そして、自分の準備が整っていたこと、それからそれを支えてくれる、きめ細やかに事務や経理をしてくれるゆずさんと、いつも丁寧にサプリの発送をしてくれるあすみさんのおかげです。(お二人とも、いつも本当にありがとう!私はこの二人に支えられています。)

それで、ちなみにインドでは無事に胃腸をやられました。(笑)一日ダウンした日がありまして、その日の観光予定をやめて、1日ホテルで寝ていました。その日は下から止まりませんでしたし、なんかいっちょ吐いた方がいいんじゃないかと(汚い話でごめんなさいね)吐いてみたら、20時間前くらいに食べたものが、まだ全然胃にありました。「人間、なんか危ない状態の時は、これ以上腸に変なもの(菌)が行かないように、胃で止めるんだな」ということがよく分かりました。ありがとう、身体の防衛システム。

 

とにかく水飲んで、出して、下のレストランから塩もらって、体内の塩分濃度維持して、回復しました。帰国してからこの話したら「みんな病院行ったり焦ったりするのに、すごい原始的な方法で乗り越えたのね」と言われました。「そう言われればそうね。」と、病院という頭がない私でした。(その後普通に7年ぶりくらいのマックを食べてなんて美味しい食べ物だと感動しました。)