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2026.09.29

一時避難の引っ越し

(2024年のニュースレターの内容を掲載しています)

住んでいたマンションを突然退去しなければいけないことになり、急遽神戸に引っ越しました、笹森です。神戸に親族のマンション一部屋が空いているので、しばらくそこを貸してもらっています。私は実は人生で9回くらい引越しをしておりまして、多分これが10回目なんです。大体3〜4年おきに引越しを行なっているのですが、いつもは新しい部屋を見つけるのにワクワク、新しい環境になるのにワクワク…だったのですが、今回はワクワク感が全くなし。物件サイトで家を見ても、ときめく家が全然なくて、ワクワクもなかったので、一時避難先として神戸のその部屋を選びました。(笑)

 

あまりにときめかない場合、出会いと呼べるほど心動かされる物件ではないということですから、次にワクワクするような物件が見つかるまでしばらくは神戸で仮住まいを続けようと思います。実は神戸には6年くらい住んでいたことがあるので、勝手知ったる土地なのです。母の実家ですし、昔からよく祖母宅に遊びに来ていましたからね。

関西のいいところは、おっちゃん・おばちゃんがとても元気なことです。電車に乗っているおっちゃんたちの元気さが良いです。日常的に関西弁を話す人たちと飲み歩いていて、彼らがボケとツッコミで応酬しているのをみると元気がもらえます。ということで、しばらくは関西を楽しむ予定です^^

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2026.09.13

家族関係を考える

家族なのにわかってくれない!という嘆きを、誰しも耳にした覚えがあるのではないでしょうか。家族が「安定・安心・安全」の役割を果たしていることは、健やかな成長と発達に必須です。しかしながら、「安心と安定と安全」と「すべての“理解”がなされる場」はイコールなのでしょうか?

答えはNOです。少なくとも私は違うと思います。

 

家族の誰かに対して「病院行くのをやめないから、腹立つから距離をとっている」「食事を良くしないから、もうほっておいている」「ワクチンを打つ・打たないで疎遠になった」と怒っている人がいるけど、そもそも身近な人だから思い通りにしたい、という気持ちはどこからくるのでしょうか。「こんなに私が心配しているのに!」と相手を思っての言葉であることもわかる。それから「それをわかってもらえない」という苛立ちがあるのも、よくわかります。

 

家族のまず一つ目の役割は、冒頭に述べた「安定・安心・安全の場」です。そしてもう一つの役割はこれです。

 

「家族という関係でも、人と人は分かり合えないことがある」

 

家族だからわかってもらえるだろう、は自然な感覚です。けれども、家族でもわかり合えないことがあるのも事実です。家族をお互いがわかり合う(補完し合う)関係であると捉えるなら、人生において必要なことって、わかり合えない人とどうやって共に生きていくのか?なのではないでしょうか。

わかり合えないから、わかり合うためにコミュニケーションがあるのですよね。コミュニケーションの取り方は様々ですから、その幅を増やしていくことも時に大事になるでしょう。そうなると、その人の理解を深めるために、色々な視点を持つことも必要になりますね。

 

家族という集団は、実は社会で人間関係を築くよりもっと難しいことが多々あります。それぞれが素の状態でぶつかるからこそ、外面を整えても意味がない。むしろ内面をアップデートして、相手に向き合う必要があるのです。家族は人間の最大の「安定・安心・安全の場」ですから、その場を作ること、諦めないで生きていきたいものです。

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2026.08.8

大人の健やかさが子どもをつくる

美味しさの基準、「感覚」を養う

両親が添加物やジャンクフードに厳しく「食べたい」という気持ちが抑圧され続けると、子どもが自分でお金を使えるようになった時に、スナックやジャンクフードをタガが外れたように食べだすことがあります。

 

子どもに身につけさせたいのは、スナックやジャンクフードはからだにわるいから摂取すべきではない、という押しつけのルールではありません。本質的なことで言うと、『美味しさの基準』を体に作ることです。「美味しさの基準」ーーーそれはどのように育んでいくのでしょう。私の大好きな土井先生が素敵な言葉を綴ってくれているのでご紹介します。

 

「ここに一つのお茶碗があるとします。それは、それまでの自分にとっては価値のなかったものです。茶碗を手にして眺めても、自分は何も思わない。ところが、自分の敬愛する人や信頼できる人に「このお茶碗はとてもいいものですよ」と教えられると、それまで何も感じなかったお茶碗がとても魅力的に感じた、このような経験はありませんか。自分がまだ未熟な時に起きることですが、そういった経験を重ねることでも、物事の基準が身についていきます。
両親が「おいしい、おいしい」と喜んで食べる様子を子どもたちが見て育てば、幼いときに嫌い嫌いと嫌がっていたとしても、いつか好んで食べるようになるものです。子どもにとって食べ物がすべてであり、そこから本当に多くのことを学び、身につけ、自分の生きる力になっていることがわかります。

ですから、そのような経験を子ども時代にしっかりとしてきた人であれば、きっと判断する力は自然に備わっているものでしょう。親が伝えてくれた情報の価値は非常に重いので、経済活動のための薄っぺらい情報や誘惑に出会っても、揺らぐことはありません。あらゆる物事を判断する基準ができているからです。」(土井善晴「一汁一菜で良いという提案」)

 

多くの場合、美味しさの基準は大人によって作られます。美味しさの基準を健やかな食事で作りながら、心からの「おいしい」を次世代を担う子どもへ伝えていきたいですね。

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2026.07.12

正しさを武器にしない

治し方は生き方

正しい治療法とは

皆さんは正しさとはなんだと考えますか?

 

正しさの根拠というのは、一つの事柄に対して、無限にあります。
反対に言うと、正しくないという根拠も無限に存在します。

 

治療法に関しても、数多くの「正しい治療法」が世の中には存在しています。西洋医学、東洋医学、ホメオパシー、玄米菜食、ファスティング、分子栄養学 etc…です。

「なんの治療法が正しいですか?」はとても答えが難しい質問です。分子栄養学を基本として体調についてのカウンセリングを行なっている私も「分子栄養学こそ一番正しい」なんていうことは、口が裂けても言えません。

 

では治療法としては、どう捉えたらいいのでしょうか。私は、常々「何が正しいか」より、「どう治したいか」の視点が大事になると思います。

 

「とりあえず症状を消す」ことが大事なのか、「からだに何が起きているのかを知って、その原因を突き止めて根本から治したい」のか。それだけで治し方は大きく変わります。

治し方は生き方です。正しさとは最後は自分の信じたものである、ということになります。ですから、その正しさは人と比較することはできない。

 

何が正しいのか?より、どう治したいか。これが重要になるのが現代だと思います。

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2026.04.30

2023年最後の小話

※2023年12月のニュースレターのものを掲載しています。

ついに2023年が終わります。今年もたくさん新しいことに挑戦しました。

石垣島にパーマカルチャー講座を受けに行き、妹とインドに行き、月に一回岐阜の民藝教室に参加し、九州、名古屋、大阪、上高地、北海道…と多くの場所に訪れました。

民藝教室は、今の日常を立ち止まって、自分の感覚や、「考えること」について深く見つめていける時間になりました。美しいと言うことを、ひたすら言語化した柳宗悦に触れ、美しさとはなんだ、と言うことを考えさせられました。実は自分は最近、考えるばかりで現実世界の自分を動かすこと、動くことをサボっていたな〜、なんて思いました。おかげで今は現実世界を生きるようになっています。

皆さんはどうですか?現実世界を豊かにしていますか?感覚や感情を使って、周囲の空気や植物や人間や芸術などと関わっていますか?

2023年は、それを取り戻すための1年だったようにも思います。気づかせてもらいありがたい限りです。

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2026.04.27

ぱさぱさの心に個性は生まれない

個性ってなんですか?

「私個性がないのです」と相談されることがあります。
個性ってなんですか?

 

髪が綺麗なこと?kawaiiこと?早く走れること?楽器が上手に演奏できること?お金を稼ぐのが上手なこと?オシャレなこと?人から注目されているということ?人より何かが優れているってこ
と?

これらは全て“表出”されていて、そして「人からの評価を受けるに値するもの」、という位置付けになっています。

 

個性を”表出”された特徴でのみとらえる人が多いけど、表出されたものがすべてではありませんよ。むしろ表出されているものは、二次的なものです。表出を導くその人の根源的な感覚や感情が存在し、それこそが本当の「個性」と呼ぶべきものです。

それは外から内に向かう引力であり、内から湧き出る活力です。わかりやすく言うと、感じたこと、思ったこと、考えたこと、です。私たちの内なる感覚が外界からの刺激を味わいつくした後に、自然と湧き上がる感情や思考です。

外に表出する矢印だけで個性を捉えている人が多過ぎる。個性は外から内の矢印が最初です。その後内から外。「外」だけつけても、中身が空っぽです。よく分からないプライドばかりが高くなる。その個性は比較を発生させるものだから、緊張状態におかれます。疲れる、攻撃的になる、落ち込む…等々。外だけ取り繕って、ぱさぱさに乾いてゆく心。

 

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難かしくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮しのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

 

「自分の感受性くらい」/茨木のり子

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2026.03.31

自立には良質な依存が必要

まずはどっぷりと包み込む

自立と依存はセット

自立させようと、異様に「自立」にこだわる親がたくさんおります。親の役割と、第三者の大人の役割は異なります。自立にこだわるあまりに、まるで第三者のような大人の立ち位置で子どもと向き合っていると、子どもは安心という土台がないまま、社会に出なければいけない感覚になります。それはどんなに不安なことでしょう。

 

子どもが選べるようにしてあげることは大切ですが、選ぶことを強要してはいけません。選ぶ際に必要な知識や技術は第三者の大人が行えます。「あなたが選んだことを、否定も肯定もせず包み込みますよ」は親の役目です。「わからない」というならば、「わからないのかあ」とその気持ちを深いところまで共感することがまず第一です。

子どもが何かをやり切ることは大切ですが、それを自分でできるように約束を取り決め、システム化して、自分で実行させることを強要してはいけません。約束を守ることは大切ですが、守らないという気持ちを理解しようとすることも大事です。なぜ守れないか?のシステムの問題ではなく、守らない気持ちはなんなんだろう、の理解を深いところまでしていくことが必要です。「約束を守る」ことが大人ないし自立への第一歩だとして、そのシステムだけに注目するならば、子どもは自分の価値を感じない経験をすることになります。

「あなたはあなたのままでいい」という言葉が多くの場所で言われていますが、果たして、「あなたのままでいい」ということが、言葉だけではないことで伝わっているのでしょうか。

 

未来が心配になりすぎて、「こういうスキルを身につけさせてあげなきゃ」という気持ちばかりが先行します。しかし、まず一番最初に子どもに本当に必要なのはスキルではなく、「どんな状態、どんな自分でもいいから包み込まれている」という感覚です。

 

「受け止めてもらう」はよく言われますが、それはどこかで表面的であります。「そうなんだね」「そう思ったんだね」などの表面的な言葉が目立ちます。

 

表面的な言葉で受け止めてもらった子どもは、人の言葉は表面的なのだということを学び、「どうせ人というのはみんな本心は違うんだ」ということを学びます。信じ切るということがなされず、諦めてどこか冷たさを持っている場合もあれば、その悲しさややるせなさを怒りに変えて爆発させて反抗している子どももおります。

親と第三者の大人の役割は異なります。自分達はものすごく理解者のようにしているけれど、子ども側から見れば、親戚の大人くらいの距離感で、それはそれはもどかしい距離なのです。ですから、「もっと近づいてくれよ」と親から見たらとても嫌な行動でやってくることもある。

 

それは子どもの自己中心的な行動ではなく、「人間には包み込みというものが必要なのだよ。あなたも、わたしも」というメッセージなのだと思います。

 

足場がしっかりとあるからこそ、思い切り走れるでしょう。ジャンプできるでしょう。

自立と独りが一緒にならぬよう、私たち大人は(子どもがいようがいまいが)知る必要があります。包み込まれているという感覚を知る必要があるのです。

 

それが、自立した人たちで形成されている社会を、繋がりが存在したあたたかなものにします。

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2025.11.12

やわい屋の民藝教室

やわい屋の民藝教室

以前、岐阜の飛騨高山に月に一回、民藝について学びに行っていたことがありました。
民藝運動は、柳宗悦(むねよし・そうえつ)が主唱者の、手仕事によって生み出される生活の中(日常の中)の器などに美を見出す運動です。民藝は柳が創り出した造語で、『民衆的工藝』の略です。

 

25歳くらいの時から、「民藝」という言葉を時々耳にすることがあったのですが、概要を聞いてもいまいちピンとしておらず、「う〜ん、まだ学ぶ機会じゃないのかな?」と当時は脳内のどっかに格納していました。それが、ここ2、3年の中でよく聞くようになってきました。通っていたとある講座の内容に入っていたり、民藝に関わる人とお会いしたり、民藝館に行くことになったり。それで、頭の中に((民藝について知りたいなあ))をいう思いが生まれていました。そんな思いが強くなってきた時に、民藝の器屋さんをされている、いや、民藝運動を生業としていると言っても過言ではない友人が『民藝の講座をやるよ〜』とFacebookに投稿。実はその友人こそが、25歳くらいのわたしに、民藝という言葉を教えてくれた当人でした。「これはいくっきゃない」と申し込み、6月から民藝についての学びを開始した運びになります。

いつも思うのですが、自分にとって必要な学びというのは、タイミングが必ず訪れてくれます。それは、私がわたしに設定しているからです。自分に必要なことは、必ずそのタイミングが訪れる、と。大事なのは、その来たるタイミングに乗れるかどうかです。(インド旅行の時にも同じ話をしましたね(笑))多分、25歳の私には民藝にはまだ至っていなかったんですよね。それで、今の私に来たんでしょう。人生のタイミングって、面白い。偶然って大好きよ。偶然といえば、「人生は必然でできている」なんて言葉がありますけど、皆さんはどう思いますか?

 

わたしはね、偶然の方が面白くないか?という派です。偶然の方がお得感ない?なんか面白くない?自分と、現象が、なんか知らないけど、マッチしたんだって、最高に面白いですよね。

 

私は楽しいことと、面白いことが人生には必須だと思っているのと、偶然の方が面白いと思っている勢なので、「偶然派」です。

 

どちらでもいいんですよ。自分の解釈の好きな方で、生きましょう……と、民藝の話から、偶然の話と、とりとめないお話でした。(笑)

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2025.10.31

食事への恐怖

食事が身体の敵になっていませんか?

食事ついてあまりにも何も無頓着で、好きなように食べているのは、この時代では御法度のように思いますが、気にしすぎて「食べるものがない」と絶望するのも、困ったものですよね。(困った人たち、ということではなくて、その感覚を持っていると、困りますよね、という意味です)
栄養療法や自然療法みたいなことで、どこかで大事になるのは食事『制限』からの解放です。

一定の食事基準で過ごすために、脳はストレス度を減らすために好きでもないものを好きと思ったり、舌やからだが喜ぶものを「別に好きじゃないし」と思うようになることが多々あります。

 

どこかで存在する『好きに食べるを恐怖』がついて回って、体調不良の人たちに限っては「これを食べるとまた悪くなるんじゃないか」が付き纏ってきやすい。

 

食事に対する恐怖は、見えない課題への恐怖が投影されていることももちろんあるのですが、シンプルにただただ、また体調不良になることへの恐怖としても存在します。

体調の改善は、食事制限から始まり、食事『制限』という意識の解放が肝になってきます。(スタートとゴールが同じだったりする)

 

も一つ言うと、いつまでも自分が「体調の悪い存在」であり続けないために、どこかでこの思考を変える必要が大いにあるのです。

 

今回は一つ、じゃあどうするといいかと言うアドバイスを。それは、驚くような美味しい、ちょっと高級で美しいお店のイタリアンやフレンチを食べに行くと良いですよ。小麦も乳製品もふんだに使っている、美味しい西洋の食文化の集結を食べるとよいです。

そしてその美味しさを存分に味わって「この美味しさを感じるためにわたしのからだは在るんだ」と感動をからだに叩き込んでください。