凸凹の発達と「障害」という言葉
仲の良い多動性衝動性の強いADHD(栄養不足からではない)の人がレシチンを飲んでみたら、時の流れが変わったそうです。
今までは「見る・思いつく・行動」が全て同時だったのが「見る→考える→体を動かす→対象に対して働きかけている自分を感じる」とコマ送りになり彼曰く『遅すぎて気が狂いそうだっった』とのこと。
時間の感覚は人によって異なる面白さをリアルに教えてもらい大いに笑いました。
「ずっと動いてるよね」「忙しない」と周りに言われる彼は『俺にとってはこの速さの時間軸が心地よい。端から見ると、忙しなかったり落ち着きがないように見えるかもしれないけど、俺にとっては一番心地いい』とよく言っています。
『多動でもADHDと言われても、その通り。でも困ったことはほとんどない』
『ただ、周りの人間がちょっと大変かなとは思うけどね』
『俺は別に困ってない』
『周りが困ってる』と笑っている。
彼は自己肯定感がエベレスト並み。何があっても大丈夫みたいで、いっそ清々しい。
わたしはこれでね、衝動性や多動性に対して「レシチンが良いですよ」ということが言いたいのでは全く無くて、その人が感じる心地よい感覚を、こちらがちゃんと理解する必要があるなと改めて思ったのです。
時に、何かのアプローチがその人の心地よさや独自の感覚を奪うことにもなる。栄養療法の、とても大事な視点です。少しからだの代謝回路が変わっているから、その人の個性がでていることもたくさんある。世にいう、芸術家とか、革命家とか、そんな人たちに基準になるように栄養をいれてしまうと、本来の能力が消えてしまうことも、ある。
大事なのは、人への観察する眼と、理解する眼。
子どもは困ってるのか?
大人が、ただ困っているだけなのか?
よくあるんですね。
子どもは自分を生きているのに、
ラベルつけられちゃうこと。
大人が社会や他者と比べて、困っているだけなのです。それって。