本の研究会(本とこころの研究所)の募集を開始します。

感じたことを言葉にすることは、人生を豊かにする。   ​人の感じたことを聞き「わたしの感じることはなんだろう」と考える時、自分はどんどん明確化する。   感じる、理解する、表現する。 この三つは自らの価値を創る。 月に一度、本の感想や意見を共有する場をつくりました。 本とこころの研究所による 『本の研究会』です。   月に一回、様々なジャンルの本を一冊ピックアップ。   その本の概要、背景などの理解を深めながら、それについてどう感じたか、どう思ったか、こんな疑問が生まれた…などの共有を行います。   自己啓発本は扱いません この会が言わば自己啓発の場。​最初は私(笹森)の考えや理解を伝えながら、皆で話していくスタイルです。   私をはじめとする「どうやって考えて、言語化しているのか」をお互いに知り得、語り合い、楽しみましょう。   ​本を読もうと思っているけど、なかなか…と言う人にもおすすめです。   読むきっかけになったり、時間をつくる動機になります。   なんのキラキラも必要ない、なんの映えも必要ない、朴訥とした会をつくります。 本を通して、こころの理解を深めませんか?   詳細 参加方法は2種類   お茶の水会場 【リアル会場】 ▷場所 ​お茶の水駅 徒歩5分 「駿河台スピックビル」 or 両国 徒歩10分 「喫茶ランドリー」 ​   ▷日時 開始:2023年1月8日(日) 毎第1日曜日 15:00~17:00 (その後希望者は飲み会へ)   【ZOOM】 ▷日時 開始:2023年2月10日(金) 毎第2金曜日 20:00~22:00 ​(ZOOM飲み会かオフ会などをしましょうね。) ​   詳細とお申し込みは、以下のリンクからどうぞ。 ▷「本の研究会」   定員制なので、心に響いたら、今です。 入会の方へは、特典がいくつかあります。 また今後「本とこころの研究所」の“こころのセミナー”へも優先枠、会員価格が生じますので、ぜひご確認ください。     優劣のない研究会   SNSが創り出すキラキラとキャピキャピしている世界とは全く別の世界観を思い浮かべてください。   言うなれば、公共の図書館みたいな、そんな素朴さ。​   もちろん、私の意見や考え、言葉を聞きたい、対話したい。そんな気持ちも大歓迎。   お待ちしております。...

鬱の青年がなぜ完全復帰したのか

  一緒に暮らし始めてから、最初は夜眠れなかったとか、ぼーっとしていた日も多かった六助くんですが、もうね、本当にね、表情が変わっていったのよ。     最初の生気の抜けた顔から、よく笑うゲラの青年になっていきました。 そして准看護師学校に受験して、無事受かって、4月前に我が家を去って行きました。   今思うと、彼がいた期間は、ずっと寒い時期だったのね。   No,1はこちら ▷鬱の青年が突然、居候にきた話   どんな風に生活をしたのか   やったことは何もありません。 ただ、とことん人として生きました。   これ、すごいのが、母は一応ちゃんと全部配慮していたそう。 後から聞いて、「母すっげ…」となりました。 やったことと、母の配慮をどうぞ。     ・朝日と共に起きてもらう 六助くんのお部屋は朝日が燦々と入る部屋で、カーテンじゃなく障子だったので、防ぎようがなし。 自動的に朝日が入ります。   母「わざとやで。お日様で起きるのがええねん。だからあの部屋にしてん。雨戸ないから」   ・毎食(昼はいないけど)一緒に食べる 笹森家は基本的に食べる時はみんな一緒。食事中はテレビも見ない、電話もしない。 1日にあったことをいつも話すので、六助くんも強制的にそこに入れられていました。   最初は、ほとんど喋らなかったのに。最後あたりは、食事が終わってもお茶しながらずっとお話ししていた。   ・ご飯は全部手作り 六助くんのおうちは、惣菜が多かったようで、「人が料理しているの食べるのが新鮮」と言っていた。 今思うと、多分、ミネラル不足していたと思うんですよね。 惣菜のお野菜って、基本はミネラル皆無なので。 ハードな仕事をしていた母だったので、ご飯は基本私が担当でした。   ・基本は無添加、無農薬、肉も出来るだけ抗生物質の使われていないようなもの 基本   ・スナックや菓子パン、インスタントなどは一切なし(家に無い) 六助くん、甘いものがあると一気に食べるタイプだったので、あまり置かないようにしていた。 笹森家はスナック皆無の家なので、あるのはお煎餅とか、豆菓子とかばかりだったような…   母「結構お菓子みたいなものばかり食べていたようやからな。家には置かんようにしてん」   ・24時前には寝る 六助くんの部屋にはストーブも、スタンドライトも置いていなかったのです。 長野の極寒の中、寝るギリギリまでリビングにいて、部屋に戻るなら寝るだけ。   真冬の朝は、「朝鼻が冷たくて起きた」と朝日と共に起きていた。   当時私もかわいそうかな〜と思って、言ったんですよね。そしたらこうでした。   私「六助くんの部屋にストーブとライトおいてあげないの?寒いよ(隣の私の部屋にはストーブがあるからちょっと悪い気がするため)」 母「ストーブおいたら、部屋から出なくなるやろ。あと、夜もずっと起きれるやろ。それじゃ意味意味ないねんな。人と話して、夜はちゃんとん寝るのがええねん。だからライトもおかへんねん」 「とにかく生活習慣と、人と話すことやで、香納子」 私「な、なるほど…」     ・会話と対話 とにかく、話をしていた半年でした。 私じゃなくて母と。   いつも夜中までずっと母と話していましたね。 トイレに行ったりして起きると、リビングの光がついているの。 夜に「あつえさん(母)今日夜お話しできますか」と言っていたのを覚えている。   でも、母は結構介護のハードな職場だったので母にね、「遅くまで話したらしんどいでしょ。ちょっとは断ったら?」と言ったんですよね。そしたらね母が「そういても、話したいと言っているからねえ。よう断らんわ。六助くんはね、圧倒的に会話が足りてないねん、せやから話すことが大事やねん。」ていうからね、私は何も言えなくなっちゃって。「そっかあ」で納得したのを覚えている。   何を話したかは聞いていないし、母も詳しくは話さしませんが、家族のこと、友達のこと、今までのことをひたすら話していたみたいですね。 あと、自分の考え方についてもね。これは私も一緒に話していました。 がっちゃしゃべり場!みたいなイメージ。よく話したなあ。   ・妹と遊んでもらう   プチ不登校中の妹(ちょっとでも楽しいように、この時期は一緒に作れる料理をよく作っていた優しい姉)   当時まだ小学二年生の妹とよく意気投合していたんですよ。彼、27歳くらいでしたけど、8歳の妹とよく遊んでいた。 妹も引っ越したばかりで、何やら友達と喧嘩したかいじめられたかで、一週間学校に行かなかった時期があったのですが、母が「お、ちょうど六助くんいるからええやん。伎音子よろしく!」と面倒を見てもらうう役目を授けていました。   母は仕事へ。 私は学校へ。 六助突然の子守   妹は「この男性がどんな経緯でいるのか」とか、関係ないですから、妹が六助くんにとって緊張しなくて良い相手だったことは確かです。 私には、ちょっと年上の意地を見せることがあったから。ふふふ。   面白かったのは、小さい子どもという存在と遊んだことなどない彼でしたので、妹が「これ何?」など説明を求めると、大人にする説明のように話し始めるから、妹わけわからんちんで、「わかんない、お母さん教えてー」みたいに行っちゃうんです。 それが面白くてね。   母「子どもへの説明の下手さが世界一やな。六助くん、賢いというのは、勉強だけではないんやで。誰にでもわかるように説明するのが賢いということや」 六助「…」 私「六助くんの話は面白くないからね〜」     …話が逸れました。 では以下に考察を書いてみましょう。   鬱の8割は栄養失調 と呼ばれる時代が現代です。 彼は、とてもショックの大きいことを経験していたので、そのショックなことを小さくみているわけでは全くありません。   そのショックたるやは本当に辛かったと感じられます。   でもね、同時に ・体に栄養がもともと足りず、それに対応しきるエネルギーを生み出せない状態 ・心の栄養を自分で生み出せる経験が圧倒的に不足していた こともとても大きかったと思うのですよ。   ・朝日と共に起きて、24時前に寝ることで、コルチゾールの分泌を整え ・無農薬無添加の食品によりミネラルとビタミンの多い食事をして、体の構成要素を補い、酵素反応を確保し ・スナックやインスタント食を食べないことで、植物油脂や酸化油を摂らず脳の炎症を止め ・自分を評価しない存在と遊び、自律神経の緊張を解き ・食事を会話と共に楽しみ、消化能力を上げ ・会話と対話で心を言語化する   これがどれだけ体に影響を与えるか、わかりますか。   人の健康になる全てが入っていること、栄養を勉強している方はもちろん、知らない方も感じられるかと思います。   大切なのは、 栄養だけ 神経だけ 心理的なことだけ ではなく、全て繋がっているから、全て大事ということです。   でも… まあ、最後に付け加えるなら、母は偉大ってことかしらね…   私(高校生三年)と妹(小学生二年かな?)   ちょっといつも勝手に犬拾ってきたみたいなノリで人を連れてくるのはやめて欲しかったですけどね。   鬱を蔑ろにも、薬が悪いと言っているわけでも、ありません。 ここに少しの希望を感じていただけたら幸いです。   六助くん、元気かな。...

鬱の青年が突然居候にきた話

私が高校生の時に、6年間鬱病で「精神薬はほぼ全種類飲んだことある」と自称する男性がある日急に居候しに我が家へ来たのね。6年間、精神薬を飲み続けて、家から出られず、大学を中退した彼はね。我が家に来て半年で精神薬を一つも飲まず、本当に「普通」の状態になって、准看護学校に受験して受かった — 笹森 香納子|分子栄養学×教育 (@kanoko_sasamori) December 2, 2021   私はね、高校二年生の時に、横浜から長野に引っ越したのです。 高校生の私と横浜の高校のお友達(ガラケーの限界)   理由は、父が無職状態なので心機一転しようぜ!となって、父と母が「自然豊かなところに住みたい」と長野を選んだからです。 安曇野を選んだ理由は住んでいた地域の最寄駅「あざみ野」に似ているから。   理解できないことが多いかと思いますので上記は忘れて本題に移ります。   ある日の晩にやってきた鬱の男性   母が神戸の実家に所用で行っていて、家に帰ってくるのを待っていた深夜。 車で帰ってくると言うから、ちょっと心配して、起きて待っていたんですが、帰ってくるなり母の後ろに虚な目をした男性がいたので心底驚いたのをよく覚えています。   一応5等身くらい離れた全く血のつながっていない親戚らしいんですけど、一度も会ったことありませんし、99%他人です。 その彼と同居が始まりました。   結果的にとても仲良く過ごしていたので言えますが、この時はまだ精神薬を使っている状態だったようで、顔は真っ白、表情は動かず、目は虚、目も合わない状態でした。 名前は仮称で六助にでもしておきますが、この六助くんの部屋は私の隣の物置と化している部屋(襖で仕切られている)になりました。   私「誰?」   六助くんの状態   変な居候がやってきましたが、実は母が居候として家に人を連れてきて泊まらせるのは六助くんに限っていないので、笹森家はすぐに通常運営。 その日の晩から一緒にご飯を食べる日が始まりました。   で、ポツポツお話をするようになると、全容がわかってきました。   ・関関同立の中の1大学に行っていた(話ことが全て賢かった) ・精神的ショックなことが起きて、家から出られなくなる ・精神科に行って薬を飲み始めて、そこから六年家に篭もりきり ・家であまり手料理を食べたことがない(惣菜の多いお家だったそう) ・昼夜逆転生活(夜はPCをしていたそう)   六助くん自体も、何が何やらわからず遥かかなた長野の地に連れてこられたので、自分の状況がわかっていなかったんですけど、話して、時間が経つうちに、「なにやら自分はこの家にいなきゃいけないらしい」と理解していったようでした。 なので、突然連れてこられたので、薬を数日分しか持っていなかったんですよね。 今思うと、不安だったんじゃないかな。   私はというと、なんか一緒に住み始めることになって、その時の食事はほぼ私が作っていたので「一人増えたら量増えんな…我が家の家計大丈夫かな…」くらいに思っていました。 我ながら一緒に住むことの順応が早いですね。   六助くんの不思議な行動   とにかく「鬱病」で薬を6年間毎日欠かさず飲まれてきていますから、どんな人だろうと思っていたわけです。 でも昔から、気になったことはとことん聞きたいタイプなので、六助くんが話しかけてくれると、私もおずおずと「鬱のお薬ってどんなの?」と、「鬱」の話を聞いていました。   とても印象的だったのでよく覚えています。 関関同立に行けるほどの頭脳をお持ちなので、とても記憶力もいいんですよね。   彼曰く 「精神の薬は何種類もあるけど、大きく幾つかに分けられるんだよね。僕はほぼ全種類飲んだことあるよ。(真偽は不明)   ・気持ちの上も下も無理やりぶった斬って、ずっと中間体に気持ちを持っていかせるもの。落ち込んだり死にたいとかの鬱状態にならないけど、喜びも楽しみもない。自分は第三者としてずっと自分を見ている感じ。実感がなくなる。 ・無理やりハイになるやつ。切れたら、ガクンと落ちる。だからずっと飲み続けないと不安になる。 ・抗不安薬も一緒。飲まないと不安になる。   あと、飲んだら背骨と後頭部がめっちゃ痛くなる。   結局気持ちをぶった斬るだけのものって感じだから、飲んでも良くならないんだよね。 でもやめられないの。飲んだ時の高揚感とか安心感が強いから。」     なんかちょっと変な人だったので、「何錠まで飲めるんだろう、飲んだらどうなるんだろう、と何十粒も飲んだことがあるんだ、ははは」と笑っていました。 あの顔は忘れられません。 (ちなみにその後意識を失って気づいたら病院だったそうです。)   あと、「これやると自律神経に刺激がはいるんだ。体にスイッチが入らない時に良い」と言って突然ブリッジし始めるので最初は驚きました。 今思うと、あながち間違っていない行動。背骨だからね。 途中からはブリッジしている彼を見て「自律神経の刺激?」と慣れて私も聞いていました。   そんで「薬は何粒でも一気に水無しで飲めるんだ」と言って薬を水なしで飲み込むこところを見せてくれたこともあります。 私「すっげえ」   奇跡の回復をする六助くん   結果的に、六助くんは3ヶ月で薬を飲まなくなり、車の免許をとり、「准看護師になりたいんだ」と言って勉強を始めて、受験しにだけ関西に戻って、無事受かって、入学と共に家を去っていきました。   薬を飲まなくなるまでに3ヶ月、その後まだ我が家にいて(今思うとなんでだ?)合計半年くらいを共に生きました。   では、彼がやったことはなんだったでしょうか。 そして、母がこっそり意識していたことはなんだったのでしょうか。   長くなったので、NO2に続きます。 ▷鬱の青年はなぜ回復したのか     ※薬についての効果はあくまで個人の感想です。...